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大野の悲劇くりかえすな 消えた甲子園の夢と剛腕の将来    産経新聞2014- 8月7日

 高校球児が全国の頂点をめざす夏の甲子園が9日から始まる。照りつける太陽に、まとわりつくような暑さ…。酷暑の甲子園球場でのスタンド観戦も、実はそんなに楽なものではない。それでも球場に足を運んでじかに見てみたいと思わせる選手が現れる。

 この夏も、期待した剛腕がいた。愛媛・済美高の安楽智大である。

 昨春、2年生ながらセンバツ5試合で772球を投げて準優勝した。

 この熱投が引き金となり、昨夏の甲子園から準決勝前日に「休養日」が設けられるようになったのだから、ある意味で甲子園の「歴史」を変えた投手といっていい。

 その安楽は昨秋、右ひじを痛めた。センバツ、選手権、さらに18歳以下ワールドカップと投げ続けていた負担が噴き出したともいえる。最後の夏も、その影響がなかったとはいえないだろう。

 結局、安楽はこの夏、愛媛大会3回戦で散った。2年のとき157キロをマークした球速は、高校最後の試合での最速が148キロ。あの剛速球は、よみがえってはこなかった。

 平成18年夏の甲子園、早実の斎藤佑樹は948球を投げた。決勝で敗れた駒大苫小牧の田中将大も658球を投じている。平成10年夏の優勝投手、松坂大輔もまた767球を記録した。彼らはいずれもプロに進み、投手としての実績を残している。

 しかし、投球過多によって将来を奪われた投手もいる。平成3年第73回全国高校野球選手権の沖縄水産の大野倫だ。

 3回戦から決勝まで、彼は4連投を強いられた。ネット裏の記者席で見ていると、日に日に彼の球威が衰えていくのがわかった。決勝戦などは、見るのも痛々しいほどの投球だった。

 深紅の優勝旗を勝ち取るために、黙々と投げ続けた彼の投球数は773。試合後、右ひじは「く」の字に曲がったままだった。その代償は「疲労骨折」。のちに大学、プロへと進んだが、彼がマウンドに立つことは二度となかった。

 大野の悲劇をくりかえさないよう、日本高校野球連盟の総務委員会は平成5年、翌夏から準々決勝と準決勝の間を1日開ける日程延長を決めた。

 5年2月17日付産経新聞朝刊に、「来夏から甲子園に中休み」という見出しの特ダネ記事が掲載されている。当時の牧野直隆会長の「将来ある若者の肩をつぶしてはならない」という談話つきである。

 ところが、これは共催者の反対で見送られたという。「ソロバンをはじくと1日延びれば経費もかさむ。球児より、おとなの都合優先というのが理由だった」

 当時取材したベテラン記者は言った。

 あれから休養日ができるまで20年の歳月を要した。

 ただ、問題は現場の意識であろう。

 あのころ、牧野さんが主張した「エースの負担を軽減するための複数投手の養成」といった方策は進んでいるのだろうか。OBたちの圧力が強い強豪校ほど勝利にこだわるため、エース続投に固執してしまう傾向は変わってはいないのではないか…。

 安楽の最後の夏を甲子園で見たかった。けれど、そこにたどりつく前に敗れ去ったことで、肩、ひじの酷使を免れたとすれば、彼の将来を考えるとき、これでよかったとも思えるのである。(正木利和)